明けましておめでとうございます。
2016年。
今年も家の修繕、家具の制作に出来る限り取り掛かりたい。
昨年末、友人たちとの忘年会でちょっと気になったこと。
昔のものでカッコいいと思うもの、ことについて。
話していたことをざっくりとまとめると、親の世代にうまれたものは古臭いというイメージが強いが、その上の世代。
つまり、祖父母の世代にうまれたものはポジティブな意味でのレトロな感じを受けるのではないか。
ファッションやインテリアのデザインについてのものは往々にしてそう感じることが少なくないように思うということ。
ひとつ上の世代程度の時間差ではカッコいいとはいえず、数世代離れたものは古くさいという感覚がなくなる。
時間の経過によりくさいが消えるのだろうか。
古い、古くさい、レトロ、ビンテージ、アンティーク等々古いものを言い表す言葉は数多くあるが、
時代遅れという言葉が耳にひっかかった。
時代遅れということは、今いる時代からは遅れているという表現。これは今よりも遅れているということを知っていなければ出てこない。
初めて見たものが古いものなのか現在普及しているものなのか、最新のものなのか。
それを判断しているものは何なのだろう。メディアの影響も少なくはない。昭和後期の映像はカラーだが多少色あせた感じ。
これを私はカッコいいとは思えない。だが、カラー技術がなかったもっと古い時代の白黒映像はカッコいいと感じる。
このイメージをそれぞれの時代に当てはめてしまっているようなきらいがある。
この差は何なのか。
時代観という言い方があっているのかどうかわからないが、
人によって単色ですら同じようには見えていないのだから、時代の色というのは人それぞれ見え方がかなり変わってくるだろう。
しかし、どの時代に生まれ育ったかによって、見え方の傾向というものがある程度別れるのではないだろかと考えている。
若い世代には良いと思われるものも、その上の世代にはよく思われなかったり、その逆も然り。
時代の見え方について考えてみるのも面白そうだ。
どこまでが古くさく、どこからそのにおいがしなくなりおシャレにカッコよく思えるようになるのか。
もしかしたらもっと単純に、自分の生きている時代と地続きに感じるかどうかなのかもしれない。
しかし、これはあまりに短絡的ではないかと私は思う。
時間の経過のみが人の感覚を左右するのであれば、いつかは古くさいと言われていたものも陽の目を浴びる日が来るということだ。
そうなるようにはどうしても思えないのだが。
少なくとももう一つの要素があるのではと思うのは、世に出ているものの製造過程。
全く同じものが全く同じ精度でつくられ売られている。それも随分と前から。
アンディ・ウォーホルのポップアートのように。
そのような製品で埋め尽くされた次は、それらに対する反発が出てきているのが
現在なのでは。
取りとめもない文章になってしまったのはいつものことだが、自分が良いと思うものについて
もっと掘り下げて考えて、特に昔のものについてどう感じるのか。
友達との会話が考えるキッカケとなった。
最後に、その時の会話でおじいさんの服を着こなすことがカッコいいという感じのことを歌っているラップがあると聞いたので
調べると1つそれらしい曲を発見したので紹介。
マックルモアー&ライアン・ルイスのThrift shopという曲がそれだ。